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2013年9月16日 星期一

日本地理教室 1:第七課 ヨーロッパ貴族になった日本人~支倉常長物語~


文章日期:2012-03-19 22:30
スペイン南西部の小さな町に、支倉常長という日本人の銅像があります。常長は、1571年に現在の宮城県仙台市で、武士の子供として生まれました。  在西班牙西南部的一個小鎮上,有一個叫做支倉常長的日本人的銅像。常長在 1571 年,作為武士的孩子出生於現在宮城縣的仙台市。

彼は1613年に約180人の部下を連れて、ヨーロッパに行きました。目的はスペイン国王にメキシコ貿易の許可をもらうことと、ローマ教皇に宣教師の派遣をお願いすることでした。当時のメキシコはスペイン領だったので、スペイン国王の許可がなければ貿易ができなかったからです。また、ヨーロッパ人は貿易始めるに際して、キリスト教の布教を要求したので、宣教師が来ないことには、貿易ができませんでした。  他在 1613 年率領大約 180 個部下,前往歐洲。目的是向西班牙國王取得和墨西哥貿易的許可,羅馬教皇希望能派遺傳教士去。因為當時的墨西哥是西班牙的領地,所以如果沒有西班牙國王的許可的話,就無法進行貿易。還有開始和歐洲人貿易時,由於基督教要求傳教,傳教士不能來的話,就無法進行貿易。

常長たちがメキシコに到着したとき、日本ではキリスト教を禁止する命令が出たという知らせが届きます。キリスト教が禁止になれば、貿易どころではありません。部下は「交渉はうまくいきっこない」と思いましたが、常長は「スペイン国王とローマ教皇に手紙を渡してから出ないと帰れない」と考えました。そこで、30人ほどの部下とスペインへ向かいます。  常長們到達墨西哥時,得知在日本發出禁止基督教的命令送達。如果基督教被禁止的話,就無法做貿易了。部下認為「無法好好交涉」,但是常長卻認為「如果沒有把信交給西班牙國王和羅馬教皇的話就不回去」。因此,帶著 30 個部下朝向西班牙去。

1615年1月30日、ついに常長たちはスペイン国王に会うことができました。国王は盛大に歓迎してくれましたが、メキシコとの貿易許可は得られませんでした。そこで、ローマ教皇に直接お願いするために、ローマに向かいました。  在 1615 年 1 月 30 日,終於常長們能夠和西班牙國王見面。國王盛大地歡迎,但是並沒有得到和墨西哥的貿易許可。因此,為了和羅馬教皇直接地請求,朝向羅馬而去。

11月3日、ローマ教皇と常長の会見が実現します。ローマ教皇からは貴族の位が贈られ、宣教師派遣の許可ももらえました。常長たちは再(ふたた)びスペインに戻りましたが、スペイン国王はやはり貿易を許可しませんでした。  11月 3 日,羅馬教皇和常長的會面實現了。由於羅馬教皇授與貴族之位,並得到派遺傳教士的許可。常長們再次回到西班牙,但是西班牙國王仍然不許可做貿易。

1620年、常長たちは満足な結果が得られないまま帰国しました。彼の業績が認められたのは、亡くなってから250年以上もたってからです。  1620 年,常長們沒有取得滿意的結果就那樣回國了。他的業績被認同,也已經是在死後 250 年以上的事了。

常長一行が滞在していたスペインの町には、「ハポン(JAPON<日本>)」という姓(せい)を持った人々が、数百人住んでいます。彼らは「キリスト教が禁止された以上、日本には帰るまい」と考え、この町に残った人々の子孫だと考えられています。  常長一行停留在西班牙的小鎮上,擁有「ハポン」這個姓氏的人,有數百人住在那裡。被認為是「既然基督教被禁止,就決定不回日本了。」,而留在這個鎮上的人們的子孫。

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